月別アーカイブ: 2014年4月

キミが先に使いなさい。

ヒラスズキから帰ってきた後、息子とキス釣りへ。
息つくヒマもない(釣りやけど)。

teibou

「あたった!」と息子。
見ると竿が小気味好くふるえてる。
が直後に
「あれ、巻けなくなった!」と。
竿が大きく曲がってる。
藻でもひっかかったんやろ。いいけん、がんばって巻かんね。
って無理矢理巻かせたら、海面にぽっかりマゴチが浮いてきた。
・・・でかい。キスを丸呑みしてる。

magoti

これは・・・上がらんやろ。
となりの堤防を見る。けっこう離れてるんだけど、イカ釣りしてる老夫婦がいた。
息子から竿を受け取り、
「タモ借りてこいっ!全速力!」って走らせる。

息子めっちゃ速い!運動会のときより速い。

その間、針が外れ、キスも外れ、ああもうダメかと思ったら、
胸びれに針がひっかかってくれた・・・奇跡!
ドラグゆるゆるで魚を誘導する。

タモを手に息子が戻ってきた。
「ちょうど向こうもゼエゼエ・・・大きなイカがかかっててハアハア・・・
手が離せないってハアハアハア・・でもキミが先に使いなさい!って
めっちゃゼエゼエ・・いい人ゼエゼエ・・・いい人やった!」

マゴチ、無事にネットイン!
「タモ返してこい!全速力!」と再度息子を走らせる。

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帰りがけ、老夫婦のところにお礼に立ち寄ったら、
タモの返却は間に合って、イカも無事にとりこめたとのこと。
「2キロありましたよ!」とご主人。よかった!
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春磯

無風。南の磯にはうねりだけが残ってました。

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思いのほか魚がでない。
そんな中で荒木さんがかける。

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少し金色がかったナイスサイズの春の魚体。
シンペンをタイトに通してやっと、って感じらしい。

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また。

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イワテルも途中参加。
一本釣り上げると、足をガクガクふるわせながら(笑)、
背中をバンバンたたきハグしてくる。そういう魚だもんね。
こっちまで盛り上がっちゃって写真撮り忘れた。

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おれもさんざんバラしてやっと一本!
条件が揃えば釣れるっていうけれど、それでも一本にたどりつくまでが長い!

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だからうれしい。

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かっこいい。ヒラスズキになりたい。

Khul’s Emotional Weather Report
イワテル坊主
たこや記

よか人

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川に散歩。深呼吸大事。
小さいけど元気なやつがかかってくれた。
久しぶりの夜釣りでヘッドライト忘れてたんやけど、
ちかくで釣ってた人がランディングんとき照らしてくれて。
ちょっと話して、がんばってくださーい、って帰っていった。
感じのいい人やったなあ。知らない同士なのにさ。
こんどからそういう人は抱きしめようって思う。

国誉めフィッシング

磯に向かう車のフロントガラスに桜の花びらがはらりはらり降ってくる。
磯につづく小道を歩くとキジが慌てぎみに横切っていく。

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富江の磯に立って、遠く大宝の方を見ると、どんよりした雲の中から時々太陽が射して山が光る。
磯際にできるサラシも、潮位や波の強さや光の変化にあわせて、次々と色や姿を変える。

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冬の間はモノトーンでキリッとかっこよかった磯も、
菜の花みたいな緑と黄色の植物がいたるとこに咲いていてにぎやか。
淡い褐色の海藻があちこち打ち上げられている。これがひじきか。
目をめっちゃワイドレンズにしてみると、山と磯と海がカラフルな点描みたいになっている。
その点描の中に一点、異色の銀色が躍る。うはー。その色。

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photo:khulmann

 

みんなでてくてく歩く帰り道は鳥の声もカラフルで、
おまえ今までどこにおったん?みたいなやつらが声色合戦をやっとった。

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と五島の春の磯のことを書いてみても、
磯を歩いて景色をみて風を感じて音を浴びる「あの感じ」のことはなんにも伝えられない。
五島の磯の春は、五島の磯の春を歩く以外に知りようがない!

以下、内田樹先生の「呪いの時代」からの引用。

本邦における「国誉め」と同じです。それは「我が国は美しい国である」という主張のことではありません。そうではなくて、現に目の前の山や野がどのようであり、森がどのようであり、川がどう流れており、人々はどのように日々の営みをなしているかを、とにかく価値判断抜きで列挙していくことです。「国誉め」は写生です。・・・・・「写生的列挙」の美点は、詳細に記述すればするほど、人間の行う記述によっては「なまもの」を汲み尽くすことはできないという不能を覚知できることです。「記述」することによって僕たちは何かを確定し、獲得し、固定するのではなく、むしろ記述すればするほど記述の対象が記述しきれないほどの奥行きと広がりをもつものであることを知る。対象はそのつど記述から逃れてゆく。千万言を尽くしても、眼前の花一輪も写実的に描写し切ることができない。写生が僕たちに教えるのは、「なまもの」の無限性、開放性と、それに対する人間の記号化能力の恐るべき貧しさです。