国誉めフィッシング

磯に向かう車のフロントガラスに桜の花びらがはらりはらり降ってくる。
磯につづく小道を歩くとキジが慌てぎみに横切っていく。

tsubakib

富江の磯に立って、遠く大宝の方を見ると、どんよりした雲の中から時々太陽が射して山が光る。
磯際にできるサラシも、潮位や波の強さや光の変化にあわせて、次々と色や姿を変える。

sarashi

冬の間はモノトーンでキリッとかっこよかった磯も、
菜の花みたいな緑と黄色の植物がいたるとこに咲いていてにぎやか。
淡い褐色の海藻があちこち打ち上げられている。これがひじきか。
目をめっちゃワイドレンズにしてみると、山と磯と海がカラフルな点描みたいになっている。
その点描の中に一点、異色の銀色が躍る。うはー。その色。

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photo:khulmann

 

みんなでてくてく歩く帰り道は鳥の声もカラフルで、
おまえ今までどこにおったん?みたいなやつらが声色合戦をやっとった。

kaeri

と五島の春の磯のことを書いてみても、
磯を歩いて景色をみて風を感じて音を浴びる「あの感じ」のことはなんにも伝えられない。
五島の磯の春は、五島の磯の春を歩く以外に知りようがない!

以下、内田樹先生の「呪いの時代」からの引用。

本邦における「国誉め」と同じです。それは「我が国は美しい国である」という主張のことではありません。そうではなくて、現に目の前の山や野がどのようであり、森がどのようであり、川がどう流れており、人々はどのように日々の営みをなしているかを、とにかく価値判断抜きで列挙していくことです。「国誉め」は写生です。・・・・・「写生的列挙」の美点は、詳細に記述すればするほど、人間の行う記述によっては「なまもの」を汲み尽くすことはできないという不能を覚知できることです。「記述」することによって僕たちは何かを確定し、獲得し、固定するのではなく、むしろ記述すればするほど記述の対象が記述しきれないほどの奥行きと広がりをもつものであることを知る。対象はそのつど記述から逃れてゆく。千万言を尽くしても、眼前の花一輪も写実的に描写し切ることができない。写生が僕たちに教えるのは、「なまもの」の無限性、開放性と、それに対する人間の記号化能力の恐るべき貧しさです。

国誉めフィッシング」への2件のフィードバック

  1. いわさき

    ほんとそのとおりね。
    そして「筆舌に尽くしがたいと書いたら負け」といった開高さんの言葉を思い出す。
    書いてあれば「その感じ」に思いを馳せることができる。
    遠くより、楽しみにしてます。

    返信
    1. たーちん 投稿作成者

      >いわさき
      すごくいいコメントだ!ほんと、そうだな。コメントに人間的大きさが見えるぞ。やっぱ苦境は人を大きくするのか・・・(想像)

      返信

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